LOGIN王宮からの帰り道、足が地に着いていないような感覚が、しばらく続いた。
国王との謁見。父の名が再び玉座の前で語られたこと。一年という期限付きの「任」。魔法省、クロヴェル、学院、王宮——それらが一気に現実の輪郭を持った。エリナは、王都の石畳を踏みしめながら、自分の足音だけを数えていた。
一、二、三、四——。
数えることで、頭の中のざわめきを整理しようとしていた。
王都での滞在は三日だけ、と決まっていた。 一日は謁見。残り二日は、情報収集と今後の段取りに使う。王宮を出た一行は、まず王都中心部の小さな宿に入った。アルバの配慮で、比較的静かな場所が選ばれている。広くはないが、四人で一部屋を使える程度の余裕はあった。
「まずは整理ね」
宿の一室に入るなり、フィオナがテーブルに紙と炭を広げた。
「一年でやることを、全部出す。優先順位をつけて、誰が何をやるか決める」
「了解」エリナも椅子に座り、紙の前に身を乗り出した。
レインは壁際に立って腕を組み、ゴードンは窓のそばで外を眺めながら耳を傾ける。「一年の任務、ざっくり言うと三つ」
フィオナが指を立てる。
「一つ。ルシェムとベルナ、その周辺三町での石鹸と薬草薬の普及拡大。二つ。王宮に提出するための『数字と報告』の仕組みづくり。三つ。クロヴェルの妨害への備え」
「それぞれ、細かく分解する」エリナが引き継いだ。
「一つ目は、単純に量を増やすだけじゃ足りない。使い方の教育、配布ルートの整備、価格の調整、在庫管理……」
「二つ目は、今までの帳簿を『王宮向けの言葉』に翻訳する作業ね」フィオナが言う。
「単なる売上表じゃなく、『どれだけ人が助かったか』を数字で見せられる形にしないと」
「三つ目が、一番読みにくい」エリナは少し眉をひそめた。
「クロヴェルがいつ、どの程度まで動いてくるか、見通しが立ちにくいから」
レインがそこで口を開いた。
「三つ目は、二つ目の質に依存する」
「どういう意味?」フィオナが聞く。
「王宮に届ける『成果の数字』が明確であればあるほど、クロヴェルが公然と潰しにくくなる」レインが淡々と言う。「逆に、数字があいまいなら、『怪しげな試み』として簡単に封じ込められる」
「つまり、報告の質を上げること自体が、防御になる」 「そういうことだ」ゴードンが窓際から振り向いた。
「その点は、私が中心になってやりましょう。商人ギルド向けの報告書と、王宮向けの報告書は書き方が違いますからね」
「お任せする」エリナが頷く。
「私とルナとマリオは、現場側の数字と状況を渡す」
「私とレインは、王都側の『空気』を拾う」フィオナが続けた。
「宮廷と魔法省、学院の動きを追いながら、どこまで踏み込めるか測る」
「……役割分担は、そんなところか」エリナは紙に四つの名前を書いた。
エリナ
フィオナ レイン ゴードンそこからそれぞれに矢印を伸ばし、仕事を割り振っていく。
いつもの作業だ。ルシェムの小さな長屋でやっていたことを、少し大きなスケールに拡大しているだけ。 だが、その|少《・》|し《・》の幅が、今までとは桁違いだった。「一番の問題点は?」
作業の手を動かしながら、フィオナが聞いた。
「現時点で、私たちのリソースが明らかに足りない。人的にも、金銭的にも」
「具体的に」 「人間で言えば、現場側の中核が私、マリオ、ルナだけ。ベルナと周辺三町に本格的に広げるなら、最低でも各町に一人ずつ『現場責任者』が必要になる」 「候補はいる?」 「ルシェムで石鹸を使ってくれている人たちの中から、信頼できる人を数人ピックアップしてる。でも、まだ話はしてない」 「それを、帰ったらすぐやる必要があるわね」フィオナがメモを取る。
「お金の方は?」
「ベルナからの取引が順調だから、当面の運転資金は足りてる。でも、在庫を一気に増やすとなると、今の手持ちだけでは心許ない」 「つまり、どこかで資金調達が必要になる」 「そう」 「その時に、クロヴェルが仕掛けてくる可能性がある」フィオナが眉を寄せた。
「『土地を担保にしろ』とか」
「だから、ギルド経由じゃなくて、別のルートも考えるべき。例えば——」そこで、一度言葉を切った。
頭に浮かんだのは、一人の顔だった。「……アルバ殿下」
レインが頷いた。
「第二王子を通じて、王宮側からの小規模な支援を受ける、という手もある」
「でも、そこまで王宮に頼るのは危険じゃない? 陛下の機嫌が変わったり、他の貴族との力関係が変わった時に、一気に足をすくわれる」 「だから、『王宮からの支援』に頼る部分は最小限にすべきだ」ゴードンが静かに言った。「ただし、『王宮が後ろ盾になり得る』という事実そのものは、クロヴェルに対する牽制になる」エリナは紙の片隅に小さく書いた。
「資金:ギルド以外のルート」
「王宮=後ろ盾(実際の依存は最小限)」信用を分散させる。依存先を一つに絞らない。
前世の起業経験者の本で、何度も見た教訓だ。 それは国家相手でも同じらしい。「あと一つ」
話が一段落したところで、フィオナが指を一本上げた。
「感情の問題」
「感情?」エリナが首を傾げる。
「そう」
フィオナは真顔で言った。
「私たちは数字と戦略で動いてるけど、クロヴェルも陛下も、周囲の貴族も、最終的には『好き嫌い』で動く部分がある」
「好き嫌い……」 「『アッシュフォードが嫌いだから』という理由だけで反対票を入れる人間もいるし、『あの子が気に入ったから』というだけで味方になる人間もいる。そこを完全に無視すると、足をすくわれる」レインが静かに頷いた。
「感情の潮目を読むのは、俺よりお前の役目だな」
「わかってる」フィオナが肩をすくめる。
「そのためにも、王都に誰か残した方がいいと思う」
「残す?」 「そう。全部ルシェムに戻るんじゃなくて、一人は王都に拠点を作る」フィオナがエリナを見る。
「私が残る」
エリナは一瞬、言葉を失った。
「一人で?」
「一人で動く方が、動きやすいこともある」フィオナが笑う。
「情報を集めて、クロヴェル派と国王派の動きを見て、必要ならすぐに連絡を飛ばす。その役は、現場よりも王都の空気に慣れてる私の方が向いてる」
「危険じゃない?」 「安全な場所なんて、今どこにもないわよ」フィオナがあっさりと言った。
「それに、父も王都で帳簿の仕事をしてる。住むところには困らない」
エリナは、少し黙って考えた。
王都に、目と耳を残す。 合理的だ。合理的だが——。「寂しくは、ならない?」と、気づいたら口にしていた。
フィオナが一瞬だけ目を丸くして、それから吹き出した。
「あなたがそれを言うとは思わなかった」
「言ってはいけなかった?」 「いいえ。むしろ言ってほしかった」フィオナが笑う。
「正直、ちょっと寂しいわよ。でも、ルシェムにいたってどうせ忙しくしてるでしょうし」
「それはそう」 「だから、ちゃんと手紙をちょうだい。数字と状況だけじゃなくて、あなたの頭の中で何を考えてるかも」 「書く」 「約束よ」フィオナが指を差し出した。エリナはその指に自分の指を軽く絡めた。
それは、子どもの約束の仕方だった。 でも、その瞬間に結ばれたものは、きっと子ども同士の約束よりも重い。その日の夜。
宿の屋根裏にある小さな部屋で、エリナは一人で紙に向かっていた。
「一年計画」と書いた紙の下に、大きく三つの柱。【現場】
【王都】 【数字】それぞれに、今日の話で出た項目を書き込んでいく。
現場——ルシェムとベルナ、周辺三町。
王都——王宮、魔法省、商人ギルド、学院。 数字——病人の減少、労働日数の増加、商会の利益と再投資額。一本一本の線を引きながら、エリナは気づいていた。
これは、父がやろうとしたことを、もっと細かく分解してやり直しているだけだ。 父は一気に「国」の仕組みを変えようとした。兵制、税制、官僚機構——大きな歯車をいきなり動かそうとして、跳ね返された。エリナは、その歯車の一番外側から、小さなネジを一個ずつ締め直しているだけ。
でも、その小さな積み重ねが、いつか大きな歯車を動かす。 そう信じられる程度には、彼女の頭の中には前世の「システム設計」の感覚が根を下ろしていた。コンコン、と扉が叩かれた。
「入って」
扉が少し開き、レインが顔を出した。
「起きていたか」
「起きてる」レインが部屋に入ってきた。手には何も持っていない。
「どうかした?」とエリナが尋ねる。
「話がある」
そう言うと同時に、レインの目がいつもより少し真剣だった。
「学院の話だ」
レインは部屋の中ほどに立ったまま、言った。
「陛下の決定を受けて、学院でも動きが出る。石鹸と消毒液の正式採用を巡って、魔法師たちの間で議論が始まるだろう」
「反対も多い?」
「多いだろうな」レインはあっさり認めた。
「だが、賛成もそれなりにいる」
「レインは?」 「賛成だ」即答だった。
「だから、俺も一年で結果を出す必要がある」
「結果?」 「『魔法以外の手段と組むことで、魔法師の仕事がどう変わるか』という結果だ」レインは少しだけ視線を落とした。
「魔法師たちにとって、お前のやっていることは『仕事を奪う』ように見える部分がある。だが、実際には『仕事の質を変える』ことになる」
「重たい単純作業から解放されて、本当に魔法じゃないとできないことに集中できる」 「そうだ。だが、それを頭で理解しても、感情が追いつかない者もいる。だから具体的な事例を積み上げて、説得していく必要がある」 「大変そう」 「お互い様だ」レインが少しだけ笑った。
エリナは紙の端に「学院側:事例づくり」と書き込んだ。
「つまり、レインも一年の約束をしたってこと?」
「そうだな」レインは窓の外を一瞥した。
「国王に対してというより、自分に対しての約束だ」
「破ると?」 「自分が気持ち悪い」 「それは嫌だね」 「嫌だ」短い会話に、妙な一体感があった。
ふと、レインがエリナの描いた図を覗き込んだ。「それは?」
「一年計画」 「見ても?」 「いいよ」レインは紙を手に取り、目を通した。
【現場】【王都】【数字】という三本の柱と、その下に連なる項目たち。
「整理の仕方が、前と変わっていないな」
「前?」 「ルシェムで、最初に石鹸の話をした時も、似たような図を描いていた」 「覚えてたの?」 「印象に残ったからな」レインは紙を戻し、少し間を置いて言った。
「……怖くないのか」
「何が?」 「一年という期限が」エリナは少し考えた。
「怖い部分もある」
「どこが」 「『ここまでやれれば十分』という基準がわからないところ。どこまでやれば、父の案を『是とする』議論の場が開かれるのか」 「陛下の言葉を信じるなら、『一年の結果次第』だ」 「でも、その『次第』の中身は、まだ見えない」レインが頷いた。
「それは、俺も同じだ」
「同じ?」 「俺もまた、『一年後に学院の空気がどう変わっていれば十分か』を、自分で決めなければならない」エリナは少し笑った。
「変なところで似てるね、私たち」
「そうかもしれない」 「でも、怖さの種類は違うかも」 「どう違う」 「私は、『父の夢をもう一度持ち出していいかどうか』が怖い」言いながら、自分でもその言葉に驚いていた。
レインがエリナを見た。「父の夢を?」
「失脚した人の夢を、もう一度国の前に出すことになる」
エリナは紙の中央に小さく『父』と書いた。
「もし一年の結果が足りなかったら、『やっぱりアッシュフォードの案は駄目だ』って結論にされるかもしれない」
「それは——」 「父を、二度殺すみたいなものかもしれない」言った瞬間、部屋の空気が少し重くなった。
フィオナにも、ゴードンにも、まだ言っていなかった本音だ。 レインは少し黙ってから、ゆっくりと言った。「それでも、やるのか」
「……うん」エリナは頷いた。
「それでも、やる」
「なぜ」 「やらなかったら、一度目の死も無駄になるから」レインが、目を細めた。
「『やらなかった後悔』と『やって失敗した後悔』のどちらを選ぶか、という話だな」
「そう」 「お前は、後者を選ぶタイプだ」 「レインは?」 「俺も」エリナは少しだけ、笑った。
「なら、同じ方向に走れるね」
「ああ」 「一つ、頼みがある」レインがふいに言った。
「何?」
「一年後、お前が王宮に報告に来る時」 「うん」 「俺も、その場にいたい」エリナは一瞬、意外そうに目を瞬いた。
「学院の代表として?」
「そういう名目になるだろうな」 「その時までに、学院の中で『そういう立場』になっておくってこと?」 「そうだ」 「大変そう」 「お互い様だ」同じ言葉が、二度目に重なる。
妙に心地よい反復だった。「じゃあ私からも一つ頼みがある」
「何だ」 「一年後、王宮で報告した日に——」エリナは少しだけ考えた。
「その日の夜、どこかでゆっくり話がしたい」
「話?」 「数字と結果じゃなくて、その一年間に何を考えてたかを。レインが」自分でも、なぜそれを頼んだのかわからなかった。
でも、言葉はもう出てしまっていた。 レインが、少しだけ目を見開いた。 そして、ほんのわずかに笑った。「……いいだろう」
「約束?」 「ああ」七歳の部屋で交わされた、その約束は。
きっと一年後、王都のどこかで、思いもよらない形で果たされることになる。 そのことを、この時の二人はまだ知らない。王都滞在三日目。
フィオナは父と共に暮らす小さな貸家へ移った。荷物は少ない。本当に必要な書類と、アッシュフォード商会の印章、そしてエリナが書いて渡した「一年計画」の写しだけ。
「必ず、手紙ちょうだいよ」
「書く」 「数字だけじゃなくて、変なこと考えた時も」 「変なこと?」 「レインのこととか」 「考えない」 「はいはい、どうだかね」フィオナはニヤリと笑って、王都の雑踏に消えていった。
ゴードンは商人ギルドの古い知り合いと接触し、王都とルシェムを結ぶ安全な送金ルートを一本確保した。「これで、ギルド経由以外の資金移動もできます」
「心強い」 「用心に用心を重ねるに越したことはありませんから」レインは学院に戻る支度をしながら、「三ヶ月ごとに学院側からの報告をまとめて送る」と約束した。石鹸と消毒液の効果、魔法師たちの反応、それに伴う学院内の空気の変化。
エリナは、王都での最後の夜、宿の窓から王城の塔を見上げた。
一年。
短いようで、長い。
長いようで、短い。でも、その一年が——
父の夢を『再び生かす』か『完全に終わらせる』かを、大きく左右する。
怖い。
でも——
面白い。
その矛盾を抱えたまま、七歳の少女は静かに目を閉じた。
翌朝、馬車は再び王都を離れ、ルシェムへ向けて走り出す。
アッシュフォード商会の、一年の戦いが本格的に始まる。物流への介入が現実になったのは、ダリウスの再訪から十日後のことだった。 朝、ヴァロウのマグダから急ぎの使いが来た。 馬に乗った若い男が、泥だらけの顔で長屋の前に現れた。マグダの息子だと言った。 「母から言付けです。今朝、荷物が届きませんでした。街道の検問が増えていて、商人の馬車が軒並み足止めを食っています」 エリナは表情を変えなかった。 「街道のどのあたりですか」「ルシェムとヴァロウの間の、橋の手前です。王都の役人が来て、通行証の確認をしていると」「通行証は、出ているはずです」「出ているのに、書類の不備があると言われて、通してもらえないと業者の人が」 書類の不備。 エリナは、頭の中でその言葉を一度だけ転がした。 不備の内容を確認しなければ、対処のしようがない。でも、不備の内容が何であれ、今日の荷物は止まっている。 「わかりました。お母様に伝えてください。今日の荷物は遅れます。代替の手段を考えます」「はい」 男が馬を返した。 エリナはゴードンを呼んだ。「予想より早かったですね」 ゴードンが、地図を広げながら言った。 「ルシェムとヴァロウの間の橋は、街道の要所です。ここを押さえれば、北方向への荷物はすべて影響を受ける」「ベルナへの荷物は?」「ベルナは南です。今のところ影響はないはずですが、いつ同じことが起きるかはわかりません」 エリナは地図を見た。 橋の位置、街道の分岐、各町への距離。 ルシェムを中心として、北と南に街道が伸びている。北がヴァロウとトレネ方面、南がベルナとキーシュ方面。 「北側の迂回路は?」「一本あります。ただし、山間の道なので時間が倍以上かかる。馬車では厳しい道です」「荷物の量を減らして、ロバか人力で運ぶことはできますか」「試みることは可能です。ただ、石鹸は重い。薬草薬は繊細で、運
ダリウス・クロヴェルが再びルシェムに来たのは、作業場の油の痕が発見されてから二週間後のことだった。 今回は、予告があった。 前日の夕方、丁寧な文字で書かれた短い手紙が届いた。 『明日の午前、改めてお話の機会をいただけますか。前回は突然の訪問をお許しください。今回は正式にお時間を頂戴したく。ダリウス・クロヴェル』 エリナはその手紙を三度読んだ。 前回より、文体が少し違う。「正式に」という言葉と、「前回は突然」という謝罪。どちらも、前回にはなかった言葉だ。 「来ていいか聞いてくる前に、来ることを決めてる」 フィオナへの手紙の下書きにそう書いて、それから消した。 余計な観察を文章にしても仕方ない。 返事は短く書いた。 『明日の午前十時、ルシェムの市場近くにある宿の一室をお借りします。そちらにお越しください。アッシュフォード商会 エリナ』 ゴードンに見せると、「場所の選び方が良い」と言われた。 「長屋ではなく、公共の場に近い宿を選んだのは?」「母のいる場所に通すのは、リスクがある。宿なら、第三者の目がある。それが双方にとっての抑止になる」「正解です」 ゴードンが静かに頷いた。 翌朝、エリナはいつもより少しだけ丁寧に身支度をした。 服は、王都に行った時と同じ一張羅だ。古い生地だが、縫い目はセレーナの仕事なので完璧だ。髪を後ろで一つにまとめ、革靴を磨いた。 鏡代わりの水盤に顔を映して、確認した。 七歳の子どもの顔だ。 それは変えようがない。でも、その顔に気圧されない目をしていれば、それで足りる。 宿に着くと、ゴードンが先に来ていた。部屋の隅に椅子を一脚余分に置き、テーブルの上を整えていた。 「フィオナさんから、昨夜遅くに手紙が届きました」 ゴードンが封筒を差し出した。 「ダリウスの件についてですか」「そうだと思います」 エリナ
レインからの返事は、手紙ではなく本人が持ってきた。 手紙を出してから十日後の朝、エリナが作業場で石鹸の型を確認していると、マリオが戸口から顔を出した。 「来てるぞ」「誰が?」「誰がって、一人しかいないだろそういう顔の時」「どういう顔」「なんか、急に背筋が伸びる顔」 エリナは手を止めた。 「何を言っているの」「俺もよくわからん」 マリオがにやにやしながら引っ込んだ。 エリナは道具を置いて、石灰の粉を手ぬぐいで拭いながら外に出た。 長屋の前に、レインが立っていた。 旅装束。革鞄。よく見ると、鞄が前より少し大きくなっている。中身が増えたのだろう。顔は変わらない。無表情で、でもどこか目だけが少し鋭い。 「来た」「来た」 お互いに同じ言葉を言った。 少し間があって、エリナが続けた。 「手紙じゃなくて、本人が来たの」「その方が早い、と判断した」「学院の用件も兼ねて?」「そうだ。ルシェム周辺の衛生改善の実地調査、という名目で外出許可が下りた」「名目、と言った」「名目だけが理由ではないからだ」 エリナは少しだけ、顔の筋肉が緩むのを感じた。 表情には出さなかった。出すつもりもなかった。 でも、来てくれたのは、素直に良かった。 午前中は、エリナがレインを作業場に案内した。 改造を終えたばかりの三部屋を、順番に見せた。石鹸の生産部屋、薬草の処理部屋、消毒液の蒸留部屋。ルナが蒸留の作業をしていて、レインが近づくと猫が一匹足元に寄ってきた。 「動物に好かれるのか」レインがルナに言った。「……なつかれやすい」ルナが短く答えた。 「魔法の影響か?」「わからない。でも、昔から」 レインが、棚に並んだ薬草の瓶をひとつ手に取った。ラベ
フィオナからの最初の手紙が届いたのは、三人の現場責任者を決めてから五日後のことだった。 朝の市場から戻ったマリオが、馬革の封筒を持って駆け込んできた。 「王都から来てる。フィオナさんからだ」 エリナは薬草の仕分け作業をしていた手を止め、封筒を受け取った。 封蝋には、小さなクロスベルの家紋の代わりに、フィオナが即興で作ったらしい印——葉っぱの形をした押し型——が押してあった。 開けると、二枚の紙が出てきた。 一枚目は、ルシェムへの報告。簡潔な文体で、王都の空気の変化が箇条書きにまとめられていた。 二枚目は、全然違う文体だった。 エリナへ 王都は、思っていたより動きが早い。 あなたが国王陛下に謁見した話は、翌日には宮廷の半分に広まっていた。反応は大きく二つ。「面白い」か「危険だ」か。中間がほとんどいない。 クロヴェル派の動きを追っている。具体的な妨害はまだ出ていないが、水面下で根回しをしている気配がある。特に、商人ギルドの幹部数名と、魔法省の中堅どころが接触を繰り返しているのが気になる。 一方で、実務派の魔法師たちの間では「アッシュフォード商会の成果を無視するのは損だ」という声が少しずつ出始めている。レインの師匠が動いてくれているらしい。 あと、ダリウスが最近、宮廷でやや孤立しているという噂がある。父親との間で何かあったのかもしれない。確認中。 それと——あなたが「事務室が少し広く感じる」と書いてくれたの、正直言うと少し嬉しかった。毒舌参謀として言わせてもらうと、あなたはもう少し素直に寂しいと言える人間になった方がいいと思う。次の手紙には、数字だけじゃなくて、もっと変なことを書いてちょうだい。 ――フィオナ・クロスベル―― 追伸:レインへの手紙に『今日も雨が降った』と書いたでしょう。彼、それについて何か言ってた? エリナは手紙を読み終えて
王都から戻って一週間が経った。 ルシェムの作業場の改造は、ハンスとマリオを中心に順調に進んでいた。長屋の隣の空き家は、思っていたより造りがしっかりしていて、改造に必要な手間も予算も予定より少なくて済んだ。 石鹸の生産ラインを置く部屋、薬草の乾燥と仕分けをする部屋、そして消毒液の蒸留器を据え付ける部屋。三つの作業区画を、薄い板で仕切る形にした。換気のために高い位置に小窓を増設し、水回りも改修した。 完成までにあと十日ほど。 その十日の間に、エリナはもう一つ大事なことを進めなければならなかった。 現場責任者の候補を、決める。「候補は、こんな感じだ」 マリオが長屋の事務室で、紙を一枚広げた。 炭で大きく書かれた名前が、三つ。 マグダ・トーラン(ヴァロウ町) ジルカ・ベッセル(キーシュ町) オーリック・モア(トレネ町)「全員、ルシェムで石鹸を使ってくれてる人と繋がりがあって、向こうの町でもそれなりに顔が広い。字も読めるし、計算もまあ何とかなる」「人柄は?」「マグダは肝っ玉母ちゃん。子持ちで、ヴァロウの女衆の中心にいる」 マリオが指で名前を叩く。「ジルカは、男だけど物腰が柔らかい。キーシュの宿屋の次男で、家業と別に何かやりたがってる」「もう一人は?」「オーリックは、トレネで小さい雑貨屋を一人でやってる老人だ。年は六十過ぎ。ちょっと頑固」 エリナは三つの名前を、じっと見た。「三人とも、人物像が違うね」「だろ。お前が言ってた『町の事情によって合う合わないがある』ってやつだろ? だから幅を持たせて候補を出した」「いい判断」「俺の判断っていうか、ゴードンさんに意見もらった」「ちゃんと相談したのが、いい判断」「言い方」 マリオが頬を膨らませて、エリナは小さく笑った。「順番は?」「近い順だと、ヴァロウ、トレネ、キーシュ。馬車で順に回れば、三日でひと回りできる」「じゃあ、明日出発
ルシェムへ戻る道は、来た時とは少し違って見えた。 同じ街道、同じ宿場町、同じ景色。 なのに、馬車の窓から見える木々の色も、すれ違う旅人の顔も、どこか違って感じる。 変わったのは景色じゃなくて、自分の方なんだろうな。 エリナは、膝の上で軽く手を組みながら、そう思った。 王宮で何を語ったか。国王とどんな約束をしたか。フィオナを王都に残してきたこと。レインと交わした、ささやかな約束。 その一つ一つが、自分の中の重心を少しずつ動かしている気がした。「眠くないか?」 馬車の中で、向かいに座るゴードンが声をかけた。 今、馬車にいるのはエリナとゴードンの二人だ。レインは王都の郊外で別れ、学院へ戻った。フィオナは王都に残っている。「眠くはない」「考えごとですか」「整理してる」「無理はなさらず」 ゴードンは短く言って、また黙った。 この男の沈黙は心地よい。必要な言葉だけを置いて、あとはそっとしておいてくれる。 エリナは膝の上の革鞄を軽く撫でた。 中には、王宮からの正式な書状の写しと、フィオナとレインに書いた最初の手紙の下書きが入っている。 ルシェムに着いたら、すぐに動かないと。 頭の中で、もう次の段取りが回り始めていた。 ルシェムの町が見えてきたのは、二日目の夕方だった。 石壁とも呼べないような低い土塀。古びた門。市場の端に立つ木製の看板。王都の壮大な城壁を見た直後だと、すべてが妙に小さく、けれど不思議と懐かしく感じられる。 ハンスの息子のマリオが、町の入り口で待っていた。 馬車を見つけた瞬間、彼は手を大きく振った。「エリナーっ! ゴードンさんっ!」 声が、思いきり大きかった。 馬車が止まるのを待たず、マリオは横を走ってついてきた。「ただいま」 エリナが窓から声をかけると、マリオがニッと笑った。「おかえり。なんかすごいことになったって、本当か?」「誰から聞いたの」